終戦後の占守島に対するソ連の侵攻についての話
占守島の場所とは
占い守る島と書いて占守島(しゅむしゅとう)と読みます。何の情報も無く読んでみなさいと言われて読むことの出来る人ってどれくらいおられるのでしょうと思うような読み方をするこの島は北の地にある島です。日本固有の領土としてロシア連邦に現在も返還を要求している北方領土があります。大きい島から言うと択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼまいしょとう)といった島々からなる地域ですね。この北方領土の場合、北海道から一番離れている島は択捉島です。択捉島から見て北東方向にあるすぐ近くの島は得撫島(うるっぷとう)と言います。得撫島から北にも島々が連なっており、ユーラシア大陸の大きな半島であるカムチャッカ半島近くまで続いています。このカムチャッカ半島近くの島から北海道のすぐ近くの国後島までを含む島々は千島列島と呼ばれています。24の島や岩から出来ています。先ほど出てきた得撫島から北の島々は千島列島の中でも「北千島きたちしま」と呼んで区分されている地域です。今回取りあげている占守島はこの北千島の北部にある島、カムチャッカ半島に一番近い場所にある島です。カムチャッカ半島の先端にはロパートカ岬(ろぱーとかみさき)がありますが、そこから島と岬の間にある占守海峡と呼ばれる海域を挟み、南西方向に11km位離れた所にあります。
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ポツダム宣言受諾後のソ連侵攻
連合国軍側のポツダム宣言を日本が受諾すると相手に伝えたのは8月14日でした。日本政府からこのような通知がされたことで日本とアメリカ、イギリスとの間の戦闘は中止されました。この時点で千島列島を領有していたのは日本国です。ロシアとの間で樺太・千島交換条約が明治八年、西暦1875年に結ばれて以降は日本の統治下でした。今回取りあげている占守島では当時日本軍の部隊が駐留していましたが、駐留していた部隊はポツダム宣言を日本が受け入れたことを承知しており、日本軍中央からの命令に従って武装解除の準備をしていたそうです。そんな、戦う気など無かった日本軍に対し突然ソ連軍が攻撃してきました。ソ連が攻撃してきたのは8月17日からだったようです。航空機からの爆撃やカムチャッカ半島からの砲撃でした。翌日の18日の深夜にはソ連軍の部隊が占守島に上陸してきます。
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ソ連軍の動きに対し武装解除の準備をしていた日本軍はすぐに攻撃をおこない、占守島の日本軍部隊を管轄している軍の司令官だった樋口季一郎(ひぐちきいちろう)さんという陸軍中将のかたからも侵攻してきたソ連軍に反撃し撃退するよう命令が出されました。ソ連軍に対し駐留していた日本軍は奮戦し有利に戦いを進めたのだそうです。同日の午後には日本軍中央から戦闘停止の命令が出て日本軍側からソ連軍側に停戦交渉の働きかけが複数回行われていますが交渉にあたる担当者がもっと上のランクの立場でなければだめだといったような理由をつけソ連側はなかなか話し合いに応じず、戦闘が続くこととなりました。戦闘が終わったのは8月21日だったそうです。優勢に戦いを進めていた日本軍でしたが、軍中央からの命令もありソ連軍に降伏し武装解除に応じることとなりました。ソ連軍との戦闘をおこなった日本軍の兵員の方々はソ連軍の捕虜とされてしまい、その後シベリアに連れて行かれ厳しい抑留生活を送らなければならなくなってしまいます。正確な数字は不明だそうですがこの戦いで日本側の死傷者は約600名、ソ連側の死傷者は約3000名だったという指摘もあるようです。
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今回は占守島の戦いについて一部取りあげました。ポツダム宣言を日本が受け入れた後も日本が統治していた地域で戦闘がおこなわれていたというのは重要な事実だと思いますし、そのような軍事行動を仕掛けてきた相手がいたことも記憶されるべきことなのではないかなと感じ調べてみることにしました。ソ連側としては8月14日に日本政府がポツダム宣言を受け入れるよと連合国側に通知してきたことを知らないはずがありませんし、このようなタイミングで敢えて武力を用いてくることに関しては「汚いねー!」というのが個人的な感想です。どうせ日本はポツダム宣言を受け入れたのですから武装解除するはずです。日本側が武装解除に応じないということであれば連合国側も武力行使ということになるでしょうが、ソ連がおこなったのはそういった理由による武力行使ではなく奇襲攻撃でした。この占守島での日本軍の奮戦が北海道などの日本本土をソ連から守る結果になったと見る方々も多いようです。千島列島で日本軍が抵抗しなければソ連は実際に北海道にまで手を伸ばそうとしたのでしょうか。ソ連のスターリンが北海道の一部を支配することも狙っていたという話は聞いたことがありますが。このようにどさくさに紛れて自国の支配地域を拡大しようとする勢力があったということや必ずしも国際社会というのは一部の武装組織は論外ですが主権国家ですら公正さを尊重するわけではないという事実は世の中の動きを予想、推測する時にとても参考になるのではないのかなと感じました。日本国民を守るために占守島で戦われた日本軍の兵員の方々に関しては感謝せずにはいられませんし、本当に頭の下がる思いがします。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回の記事ではちょこっとさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。
第二次世界大戦末期のソ連対日参戦について触れている話「ソ連が連合国側として参戦した理由は何だったのでしょう」はこちらです。
日米戦争勃発以前の日ソ間の約束について触れている話「1941年締結の日ソ中立条約とは?締結した理由についても」はこちらです。
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