戦後に一部の宮家の方々が皇族の立場から離脱された出来事

戦後間もなく皇族の立場から離脱した方々がおられました

第二次世界大戦後の歴史や皇室に関係する出来事について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに日本が連合国側との戦争を終了させた昭和二十年(西暦1945年)からそれ程期間が経過していない時期に起きた皇籍離脱(こうせきりだつ)、大日本帝国憲法下では臣籍降下(しんせきこうか)と呼ばれた、皇族のかたが皇室に属する身分を離れ一般国民の立場になった出来事について書いてみたいと思います。その出来事は皇族の女性が一般国民の立場の男性と結婚されるために皇族の立場から一般国民の立場に変わるという話とは別のものです。昭和二十二年(1947年)の10月に男女の皇族、合計51人もの大勢の方々が一般国民の立場となりました。それ以前は日本の皇室に天皇陛下の御世帯とは別に14の宮家が存在していたのですが、この昭和二十二年の51人の方々の皇籍離脱によって日本の皇室は天皇陛下の御世帯と3つの宮家だけとなってしまいました。11の宮家が一挙に皇族の立場でなくなったわけです。ちなみに3つの宮家とは秩父宮家(ちちぶのみやけ)、高松宮家(たかまつのみやけ)、三笠宮家(みかさのみやけ)のことです。この三つの宮家は昭和天皇のご兄弟が昭和二十二年当時、当主となっておられました。皇族の立場を離れることとなった宮家は伏見宮家(ふしみのみやけ)、閑院宮家(かんいんのみやけ)、山階宮家(やましなのみやけ)、北白川宮家(きたしらかわのみやけ)、梨本宮家(なしもとのみやけ)、久邇宮家(くにのみやけ)、賀陽宮家(かやのみやけ)、東伏見宮家(ひがしふしみのみやけ)、竹田宮家(たけだのみやけ)、朝香宮家(あさかのみやけ)、東久邇宮家(ひがしくにのみやけ)の11の宮家の方々でした。どうして昭和二十二年の10月に一挙に51人もの方々が皇籍離脱したのかについては当事者である宮家の方々の御意思だったからといった説明も見受けられますし、実質的に当時の日本国を支配していた連合国の圧力によるものといった見方もあるようです。

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この出来事に関する公的な説明

この項目の見出しに公的な説明などという表現を使いましたが、ここで取りあげようとしている話は日本国内閣総理大臣官邸のホームページで公表している資料を参考にしているので公的な説明といった言い方をしても差し支えないかなと思います。皇籍離脱と検索すると「昭和22年10月の皇籍離脱について」という見出しのついたサイトが上位に表示されるかと思います。URLを見るとわかる通り首相官邸に関係しているお役人の方々が作成した資料だと思われます。その資料で現在の日本政府の見解が述べられているというわけではないのですが、昭和二十二年(1947年)当時首相職を担当していた片山哲という人物(日本社会党の政治家)による51名の皇族の方々の離脱についての説明を掲載しています。当時の片山首相は昭和二十二年の10月13日の皇族会議で終戦後間もない時期の時点で一部の皇族の方々から一般国民の立場となって(つまり皇籍を離脱して)日本の再建に参加したいという希望があったといった内容の説明をしています。どうして一部の皇族の方々がそのような考えに至ったかについては終戦後の国内外の情勢に鑑みといったあいまいな理由付けがされている程度で詳しいことには触れられていません。ただ皇室会議で一部の皇族の方々が皇籍離脱したいという明確な意思を持っているということが議題として挙げられ、会議で離脱が了承されることとなりました。資料には皇室財産に関する連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からの要求について触れている部分が資料の最後に補足として掲載されてはいるものの、資料を見る限り、国の再建のため皇籍を離脱したいという一部皇族の方々の主体的な意向に沿って昭和二十二年10月に皇籍離脱となった、そのような内容と受け取れました。片山首相が日本の情勢や日本国憲法の精神、皇室に使用できる経費などといった事情を並べ、皇籍離脱が「適当」との意見を当時の行政の長として会議内で述べていることも資料には掲載されています。

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連合国軍側の圧力

GHQの方針によって多くの宮家が皇籍離脱に追いやられたのであり、一般国民となることは昭和二十二年10月に皇籍離脱された旧皇族の多くの方々の本意ではなかったといった見方も多いようです。皇籍からの離脱を希望された意見としては東久邇宮さまのお考えがよく取りあげられるようですが、先の大戦で日本国が敗れたことに関し天皇陛下に進言なり何らかのはたらきかけが出来なかった道義的責任を皇籍離脱という形でとりたいといったお考えを持たれる方もおられたのだそうです。ただそのような考えのかたばかりではなく皇族の立場にとどまり天皇皇后両陛下をお支えするというこれまでの役割を引き続き果たすべきだという意見の皇族のかたもおられました。それが11宮家51人のかたがたが一挙に民間人の立場になられたことについてはGHQのおこなった皇室に関する経済的な締め付けが大いに影響した、昭和二十二年の皇籍離脱を批判的に見る立場の人々はそのように考えているようです。もともと皇籍離脱された11宮家の方々を含め皇族の方々の生活のための費用は皇室の財産でまかなわれていました。しかしGHQはこの仕組みに手を付けます。それまでの皇室財産を皇族の方々が使用することは禁止するように日本政府へ指示しました。またGHQは皇室財産と見なされない、各宮家の資産については非常に高い税率の資産課税をおこない、多くの宮家の方々を経済的に追い詰めることとなります。皇室が必要とする経費は政府の予算から捻出することとなったのですが、当時のひっ迫した国家財政の状況から多くの宮家を経済的に維持することが難しいという雰囲気となり、結果的に11宮家皇籍離脱やむなしという結果に至った、つまりGHQの対皇室政策によって直接的ではないものの皇籍離脱に追いやられてしまったというわけです。

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今回は昭和二十二年(1947年)に起きた出来事である51名の方々の皇籍離脱について取り上げました。最近旧皇族、つまり昭和二十二年に一般国民になられた方々のご家系から一部の方々に皇族としてお戻りいただくことで男性の皇族の方々の人数を増やし、今後の皇室制度の維持に貢献していただいたほうがいいのではないかという意見を耳にし、戦後間もない頃にあった皇籍離脱、臣籍降下というのはどういった出来事だったのか知りたくなり、このようなテーマの記事を作ってみた次第です。建て前的にはあくまで皇族の方々のお考えによって皇籍離脱されたということで説明は出来るようですが、どうも51人の方々が当初から皆積極的に皇籍離脱しようとしていたわけではなく情勢の悪化により否応なく皇籍離脱せざるを得なくなったといったところが実情だったのかなぁなどといった感想を持ちました。国家財政を建て直すために皇室財産を没収することが果たして不可欠だったのかというと私には判断する材料もありませんが、戦後直後はどうせインフレで大変な経済状況だったわけですし皇室財産をつぎ込んだところで国民に対する預金の封鎖や資産課税が回避できているわけでもありません。また皇室財産を没収したことで日本の財政問題が解決したなどという話も聞いたことがありません。確かに額は莫大なので皇室財産をあてないよりはあてたほうが財政状況も改善はするのでしょうが、日本経済が安定するまでの期間、旧皇族の方々が何とか生活出来るお金を皇室財産の中からある程度確保するくらいの配慮はやり方によってはどうにでもなったのではないでしょうか。戦勝国側がそのような配慮をしなかったという所に、連合国側の日本皇室に対する政策、方針がやはり透けて見えてくるのだろうと思います。今回取りあげた皇籍離脱の経緯を見てみると、旧皇族の方々のお考えによっては皇室の体制を盤石にするために皇籍に復帰していたたくことも当然の選択肢なのではないかと個人的には感じた次第です。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではジュンPさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

日本の御皇室の仕組みに関する議論について触れている話「女性宮家とは?この問題に関する賛成・反対の立場の意見について」はこちらです。

第二次世界大戦末期の昭和天皇のお考えについて触れている話「終戦を決定付けた御前会議での昭和天皇の御発言の概要は」はこちらです。

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