古代中国の周王朝が東遷してから大陸はどうなったのでしょう
中国大陸の周が東遷したあと
中国大陸の古代の秩序や諸勢力の状況について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では古代の中国大陸に存在していた王朝である周(しゅう)が王朝の都を黄河(こうが)流域の洛邑(らくゆう)という都市に変更、いわゆる東遷(とうせん)をしたあと中国大陸内はどのような状況になっていったかについて私なりに書いてみたいと思います。古代王朝、殷(いん)が紀元前11世紀(紀元前11世紀は紀元前1100年~紀元前1001年までの間)に亡び、それに代わって成立した周王朝ですが、王朝誕生の頃に比べ支配する能力は時代を経るにしたがって低下し、異なる民族の侵攻を撃退することがかなわず、先ほど述べた洛邑に都を移さざるを得なくなります。紀元前770年、あるいは紀元前771年の出来事だったと言われています。周王朝成立から300年くらい後ということになります。遷都した後の周のことは東周(とうしゅう)と呼ばれ、それまでの周王朝とは区別されています。周王朝が東遷した後、周王朝の影響力はどうなっていったのでしょう。簡単に表現すると、かつてのような統治能力を維持することは出来なくなってしまいました。東周の影響力が低下したのとは反対に、かつて周王朝の支配下にあって、決められた領地の統治を任されていた、本来周の王様の家来にあたる諸侯(しょこう)の影響力が強まっていくこととなります。周王朝が東遷してからの時代は春秋時代(しゅんじゅうじだい)と呼ばれます。その後、紀元前403年以降は戦国時代と呼ばれる時代になるのですが、これらの時代を合わせて春秋・戦国時代と呼んだりもします。今回の記事で扱うのは春秋時代の話です。
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周の影響力は落ちていきました
異民族の侵攻を理由にやむを得ず都を移さなければならなかった周王朝。異民族に押されてしまったとはいえ、そのまま没落するのは当然避けたいと考えます。東遷したあと、周の王様は周を再び強かったころの王朝、国によみがえらせることを望むわけですが、うまくいきませんでした。本来周の王様の家臣にあたる立場の人物が治める領地の一つに鄭(てい)という国がありました。この国は東遷した周の領地と隣接していた国だったそうです。周は隣接する鄭との間でトラブルとなり、周の王様は鄭の指導者から官職をはく奪しました。鄭の指導者は周の王様に対し臣従の姿勢を示すことを怠るようになってしまいます。とうとう周は鄭を武力攻撃することにしました。しかし周にとっては残念なことに他国と連合して鄭を攻めたものの鄭を屈服させることに失敗してしまうといった結果に終わります。迎え撃った鄭側の軍に周の王様の軍は大敗してしまいました。おまけに周の王様はこの鄭国攻撃の際、肩に矢が当たり傷を負ってしまいます。この周を中心とした連合軍が鄭に侵攻した戦いは繻葛の戦い(しゅかつのたたかい)と呼ばれています。本来周が従えていた鄭という国すら、周は制圧することができないということを世の中にさらしてしまうこととなったため、周の王様の発言力はさらに低下していきました。周の王様は家来であるはずの諸国の指導者たち、諸侯たちからあまり相手にされなくなってしまいます。一方周の攻撃を跳ね返したことで鄭国の株は上がりました。本来周の王様の家来として周の周辺諸国を治めていた諸侯たちに鄭国は称えられ、尊敬される立場になったそうです。しかしそんな鄭国も繻葛の戦いで周を撃退した指導者が亡くなり、鄭国で内輪もめが起きて衰退していきました。
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有力な勢力がまとめるように
周の王様の影響力は低下し盛り返すようなことはその後ありませんでしたが、ある程度の権威は保たれていたようです。そのため周の王様の家来という立場であった諸侯たちが周の王様を倒して新たな王朝を創るといったことは春秋時代には起こりません。しかし周の王様が諸侯たちをまとめる力を失っていたため、力のある諸侯(「力のある」ということは当然軍事力の強いということも含まれます)が影響力を強めることとなります。そういった力のある諸侯は周王朝の家来の立場であった諸侯たちの治める国々の間で同盟を結ばせて、自らは同盟の指導者となり、周の王様を尊び、異民族を撃退するという意味の、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という標語を掲げました。周の王様を尊ぼうと同盟の指導者が同盟に加わった国々に呼びかけ守らせるわけですから、こういったことからもまだまだ周の王様は尊重されていたということがわかります。このような同盟の盟主、リーダーは覇者(はしゃ)と呼ばれました。一般的な覇者という言葉は何かの分野で最も優れた存在を意味しているように思いますが、ここで使われている覇者という言葉はそれとは異なります。この覇者と見なされた人物にはいろいろ説があるのだそうですが、斉(せい)という国の指導者であった桓公(かんこう)という人や晋(しん)という国の指導者であった文公(ぶんこう)といった人はたいていその覇者と位置付けられているようです。桓公さんが先に同盟の盟主となり、この方が亡くなった後の時代に文公さんが同盟の盟主として名を馳せることとなりました。桓公さんや文公さんといった人たちは中国大陸の長江流域に勢力を持つ楚(そ)という国、周や諸侯たちから見ると異民族と映る勢力との戦いに勝利し覇者としての地位を固めたようです。
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今回は周王朝が遷都した後、中国大陸の体制はどういった状況になったのかについて一部取り上げました。学校の歴史の授業で習い、中国大陸について自分が覚えていたことは、殷、周、秦、漢といった成立する王朝の順番くらいなもので、周王朝が遷都したことやその後どうなったかについては全く印象に残っていません。ただ春秋・戦国時代というのは何となく聞いたことはありましたし、春秋という言葉は国内の出版社でも使われていたりしますのでそれなりに馴染みはあります。ただ中国の春秋時代については知らないことも多く、周の遷都までこのサイトで触れてきた手前、その後どうなったのかについても気になりましたので今回のようなテーマの記事を作ってみました。有力な国が発言力を失うきっかけは敗戦、そういうことは多いのでしょうかね。周が鄭国に勝利していたら、周にとって異なった展開があったのかもしれません。周が関係する諸国をまとめることができなくなると、本来周の手下だった国の中で、力のある国が主導権を握るようになっていったわけですが、こういった構造はわが国日本の室町時代後期の状況と似ているように感じます。周が朝廷や室町幕府将軍で諸侯たちが戦国大名のような立場といった具合で。トップに統治する軍事力がない場合でも権威があるのなら、このように決定的な下克上にはならず、中国大陸の周や日本の朝廷、幕府といった権威の枠組みの中で家臣のような立場の複数の有力勢力が競い合い、自分の影響力、発言力を大きくしようとするものなのかもしれません。軍事的な意味で力の無いトップが存在する場合と存在しない場合で世の中の混乱する程度というのはどれくらい異なるものなのかといった点も気になりました。それほど変わりがないのかもしれないという見方は当然あり得るものの、権威となる存在が無い状態より、民衆に危害が加わらないのなら存在した状態のほうがはるかにましなのではないだろうかという気が個人的にはしてしまいます。失ってから権威となる存在があった頃のほうがよかったと後悔しても、もう遅い、手遅れなどということもあるかもしれません。相当注意したほうがいいように感じます。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回の記事では武市正雄さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。
大国である周が大変なことになってしまったいきさつについて触れている話「強大な周王朝(西周)が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。
日本の室町幕府の力が低下するきっかけについて触れている話「応仁の乱の原因は簡単に言うと何だったのでしょう」はこちらです。
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