戦前の天皇は政治上どの様な役割を担当されたのでしょう

戦前の天皇の政治上の役割

大東亜戦争、太平洋戦争が始まる以前の日本の世の中について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では戦前の日本で天皇陛下が政治の分野でどういった役割をしていたのか、実際の政治の世界とどういった関係にあったのか、現実の政治に介入していたものなのかといったことについて自分なりに書いてみたいと思います。現在の日本の世の中では日本の政治を仕切るのは首相、総理大臣であって、普段の報道を見ていても天皇陛下が政治の世界に入って来てあれこれ指示を出すなどという光景は出てきません。出てくるはずもなく、現在の日本の決まりでは、日本の天皇陛下は国会や日本政府が決めたことを承認されたり、役職の任命など日本政府の申し出に沿って行動することが定められています。そのため天皇陛下がお一人で何か政治的判断をされてそれが実施されるような仕組みにはなっていません。今の日本の世の中では天皇陛下に政治的な権力は現実的に見て無いように感じます。大東亜戦争、太平洋戦争終了後にアメリカの占領下で作成された日本国憲法に基づいて日本国が動いているからそうなっていると説明することは間違っていないと思うのですが、それでは日本国憲法がつくられる以前の日本国の憲法、大日本帝国憲法が使われていた時代はどうだったのでしょう。主権は天皇に存在していたということは学校でも教わります。主権があるくらいなのですから法律作成、実際の政治運営、裁判など天皇陛下がそうしようと思えば口の出し放題、やりたい放題だったのでしょうか。大日本帝国憲法に天皇が大日本帝国を統治するという内容が書いてはあるものの、実際のところ天皇陛下お一人の判断で法令を出されたり、政府や議会の決めたことに口を出されて変更させるようなことはほとんど無かったのだそうです。

スポンサーリンク

制限されていました

明治時代からアメリカに占領されている途中まで日本の憲法であった大日本帝国憲法では天皇が日本を統治するとあるものの、その憲法の中で色々と制約が設けられていました。国のルール、法律については、天皇が立法権をおこなうとなっていても「帝国議会の協賛をもって」という制限がありますし、帝国議会で作られた法律を裁可(さいか)、承認して交付することを命じるといった内容になっていますので議会で決めたことを認めますよということになります。法律の代わりになるような法令を天皇が出すことも出来ることとなっていましたが帝国議会が閉会されていてなおかつ緊急の場合にという制限が加えられています。すでに出来ている法律を天皇が変更することは出来ないということもわざわざ条文に書かれています。また五十五条には国の政治に関する天皇の意思を示す公文書には大臣の署名が必要だとしています。天皇単独の公文書だと効力がないということになりますから天皇のほしいままにはなりません。また司法権も「天皇の名において」とはありますが裁判所が法律によりおこなうとなっていて天皇陛下の介入する余地はありません。法律については先ほど書いたように天皇陛下が承認することが出来る程度で法律の中身については帝国議会が決めますし、法律の代わりになるような天皇陛下の出される指示についても大臣の署名が必要となりますので。ということで天皇が政治に対し実際に介入するようなことは大日本帝国憲法で相当制限されていました。昭和天皇が実際の政治に介入された出来事として2・26事件や終戦時のポツダム宣言受諾が多くの人々によって指摘されていますが、この二つの出来事については2・26事件で昭和天皇が討伐の指示を出したことについては、内閣がきちんと機能しないような中での緊急の事態でしたし、ポツダム宣言受諾についても会議で昭和天皇がしゃしゃり出て連合国の提示したポツダム宣言を受諾せよと命じたわけではなく、会議内で参加者による合議による結論が出ず鈴木貫太郎首相が昭和天皇に御意向を発言されるよう求めたからこそお考えを述べられたに過ぎません。昭和天皇が大日本帝国憲法の定めている内容と矛盾するようなことをされたわけではないのでしょう。

スポンサーリンク

政治という分野とは少しずれるのでしょうか

戦前の日本の仕組みから見て政治分野の一つであるのかどうなのかよくわかりませんが、現在の日本の仕組みであるならば安全保障分野は当然政治の範疇に含まれてくる話です。当時の日本軍を指揮する権限は大日本帝国憲法によれば第十一条に「天皇は陸海軍を統帥す」とありますので時の天皇にあるということになります。統帥(とうすい)は指揮官が軍を動かすことを意味する言葉です。となると国防分野では天皇は実際の軍の運用について口の出し放題ということにもなり得るかなという気もします。しかしこの分野についても結局のところ天皇は下部機関からの意見上申に対して承認するということがほとんどだったようです。熱河(ねっか)作戦という、かつて存在した満州国と隣接する中華民国の領域であった熱河省(ねっかしょう)に日本軍(関東軍)が攻撃するという軍事行動がありました。これについて昭和天皇は軍の要請があったため昭和天皇本人はその作戦に対して非常に懸念されていたそうですが内閣からの了解を得ているという説明がされていたため万里の長城を超えないという条件を付けて承認しました。この熱河作戦については昭和天皇が実際に軍を指揮したという事例として指摘されることもあるようですが、内閣の了解があるという説明、参謀本部の要請という中での判断ですので、何も求めが無いところに昭和天皇単独で作戦を指示し始めて軍を動かしたわけでは全くありません。結局のところ陸軍については参謀本部、海軍については軍令部という機関がそれぞれの軍を動かすための指示を実際に出し天皇はその指示を承認するに過ぎなかったようです。2・26事件については内閣の機能が麻痺するような緊急時ということや陸軍が事態収束に消極的だったこともあって昭和天皇が反乱部隊を鎮圧するよう明確に指示を出し続けたそうですが、この件は前述したような見過ごすことの出来ない事態が重なってしまった非常にまれな事例です。

スポンサーリンク

今回は大東亜戦争、太平洋戦争終結以前の天皇の役割について一部取り上げました。世間では昭和天皇に戦争責任があるという意見もあるようですし、過去に出版された一部の書籍の中には責任があるどころか先の大戦前や戦争中、相当影響力を行使したと主張するものもあるようです。もちろん昭和天皇に戦争責任は無いと主張する書籍もあります。現代を生きる一国民である自分がこの点について昭和天皇がどれほど戦争遂行に関与したのか実際のところを確認することなど出来るはずもなく、過去の文献、資料を研究された方々の意見を拝聴するくらいのことしかできないのかなという気もします。それはそれとして、背景は理解しておいたほうがいいように思い、終戦以前の制度では天皇がどのような役割を果たされることとなっていたのか一般的な見方を確認してみたく今回のようなテーマの記事を作ってみようと思いました。大日本帝国憲法を作成した時点から天皇となった人物に政治責任が問われないような配慮がされていたということを今回知ることが出来ました。実際のところ帝国議会や内閣が結論を出し、天皇はその結論に文句をつけず承認をするだけだった、拒否するような権限は認められていなかったわけです。天皇が裁可することで手続きが完成するので裁可は必要ではあるのですが、裁可の時点で内容が変わることは無く、こういった仕組みであることによって天皇に政治責任が及ばず天皇の立場を守ることが出来ると憲法を作った人たちは考えたようです。しかし戦前の世の中には天皇が主体的に政治に関与する天皇親政(てんのうしんせい)を実現するべきだと主張する勢力もありました。有名なところでは血盟団事件、5・15事件、2・26事件が挙げられます。大変な不況が日本国を襲い、絶望的なほど生活に苦しむ国民が大勢いる中、そういった状況を解決できない当時の政治に怒り天皇陛下自らの仁政によって国民を救うべきだといった趣旨から天皇親政が主張されたようです。しかし今回の記事を作成していて天皇の役割がもっぱら他で出された結論を認可することだったということを知ると、一部の人たちが求めた天皇親政という仕組みは天皇のお立場をひどく危うくしてしまうことにつながりかねないような気がします。天皇陛下御自らなされる政治が成功した場合はいいでしょう。しかしもし天皇が中心となって政治をおこない大失敗した場合、人々の怒りの矛先が時の天皇に向いてしまい、多くの人々が皇室制度を否定してしまうことにつながりかねません。多くの国民は皇室を敬愛しているのでそういったことになる危険性は低いと言えるでしょうが、心配な要素は少ないほうがいいはずです。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではmasa2さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

皇統が危うくなった出来事について触れている話「道鏡という人が天皇になろうとしたのを阻止したというお話」はこちらです。

本文で挙げた事例、2・26事件について触れている話「2・26事件とは?昭和天皇の対応や裁判の結果についても」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る