前漢が郡国制という仕組みを始めた理由は何だったのでしょう

漢(前漢)が郡国制を導入した理由

中国大陸の古代の歴史、かつて存在した王朝の政治、政策、秦王朝末期に台頭した劉邦さんという人物にまつわる話題などといったことについて関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では劉邦さんが他の勢力と覇権を争い勝利した結果、皇帝の座について新しく打ち立てた王朝、「漢(かん)」の有名な制度の一つ、郡国制(ぐんこくせい)という仕組みが採用された理由について私なりに書いてみたいと思います。中国大陸の広大な地域を支配下に置いたそれまでの王朝、秦(しん)や周(しゅう)も、それらの王朝なりに治める仕組みを作ってはいました。このサイトの別の記事でも触れたことがありましたが、周王朝の場合は封建制(ほうけんせい)という仕組みが採用されていましたし、周王朝が倒れ、その後、新たに広大な地域を統一した国、秦は郡県制(ぐんけんせい)と呼ばれるようになった仕組みを採用しています。そして漢の場合は郡国制。封建制、郡県制、郡国制がそれぞれどのような制度なのかということについてですが、封建制や郡国制の場合、王朝は直轄(ちょっかつ)地、直接支配する領地を保有し、それ以外の領地は王朝の王様の一族や手柄をたくさん立てた家来などに分配し、その領地の統治を認めるという仕組みです。王朝が有力者にその領地支配を認める代わりにいざ戦争になった時などは諸侯と呼ばれた有力者たちに王朝の側に立って戦争に参加するお役目や貢物を納めるお役目が課せられていたそうです。それとは別に秦の採用した郡県制は有力者に領地を分配し統治を任せるようなことはせず、王朝の中央政権が役人を任命して各地域に送り、送られたお役人が王朝の王様、皇帝の命令に従って各地域を統治するという仕組みです。地元に根付いているような有力者に統治権限はありません。地域に送り出されたお役人はいずれまた中央に戻っていくことになりました。漢の採用した仕組みを封建制と呼ばず、郡国制と呼んで区別しているのは王朝の直轄地で先ほど説明した秦の実施していた県制が採用され、他の地域をしかるべき人々に分配し、それら分配された領地をとして封建制が採用されるという、郡県制と封建制の併用といった特徴があるからということのようです。制度の仕組みに関する簡単な説明はこれくらいにして、どうして漢では郡国制が導入されたのでしょう。(のちに高祖「こうそ」と呼ばれる)劉邦さんが頂点となった漢という王朝の体制が、漢王朝誕生直後はまだ盤石、しっかりしたものではなかったからという見方が多いようです。

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反乱を発生させたくない

漢王朝の体制がしっかりしていないことでどうして郡国制採用となるのでしょう。郡国制という仕組みにして、地方の領地をしかるべき人たちに分配し、その人々が諸侯、各領地の一番偉い人となって統治をおこなう、漢王朝の中央からあれこれ諸侯に注文を付けず比較的自由に領地内を治める権限を与えると、諸侯となった人たちはその権限によって様々な利益を得ることになりますので、そのような漢王朝の判断を歓迎します。中央が地方に対しておこなう政治に不満を持つことで、地方から反乱を起こしてやろうといったような機運も強まりにくくなるでしょう。漢が誕生する以前の王朝、秦はこれと異なる仕組み、郡県制を採用していたので、かつて秦によって倒され統一されてしまった国々の重要な立場だった人たちは政治的権限を秦の中央政府から与えられることは無く、干されてしまい不満が強まってしまったと言われています。秦が全国を統治していた時に反乱が各地で発生したことの理由については厳しすぎる法律が徹底して行われたことによる反発からだとよく指摘されているようですが、政治的な権限を秦の王朝に取り上げられてしまったかつての国々の指導層の生き残りの人々の持つ恨みが反乱行為に拍車をかけたと漢王朝の政権は分析したようです。漢王朝が出来たてのホヤホヤの時に各地で反乱がおきてしまっては対応に苦労してしまいます。劉邦さんが権力の頂点をめぐって争った非常に強力なライバル、項羽さんを倒すことに成功したのは様々な軍事勢力が劉邦さんの側に立って戦ってくれたからでした。そのような諸勢力は最初から劉邦さんと行動を共にしていた人々、劉邦さんに対する忠誠心が厚い人たちばかりでは全くなく、劉邦さんが最終勝利者になる過程で、最初は劉邦さんと敵同士となっていた立場の勢力もありました。項羽さんに仕えていたものの、その後劉邦さんの側に寝返った英布(えいふ)さんという武将がいたそうですが、彼は漢王朝が成立した後に淮南(わいなん)国という国の王に任命され、その国の統治を漢王朝から認められました。劉邦さんが英布さんのような立場の人にしっかりと御褒美となるようなものをあげないままにしておくと、「俺は項羽との戦で活躍したのに、劉邦め。大して恩賞もくれやしない。」と劉邦さんに対して反発しかねません。漢の体制がしっかりしていないうちにそういった人々に反乱を起こされないよう劉邦さんはそれなりに配慮する必要がありました。

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そういった制度が取り入れられたものの

劉邦さんが皇帝となり郡国制が導入されはしましたが、しばらくたつと関係の深い人や功績のあった武将に分配されたはずの領地は何らかの理由をつけて中央政府に没収されていったそうです。漢、初代皇帝となった劉邦さんの時代に領地を取り上げられてしまった人もいましたし、劉邦さんの代からかなり後の皇帝の時代の時に領地を取り上げられた場合もありました。劉邦さんの時代では、有名な武将として項羽さんとの戦いで勝利することに大変貢献した武将、韓信(かんしん)という人が漢王朝発足直後に得ることが出来た待遇を失ってしまいます。この方は戦での勝利に貢献した褒美として楚の国の王様となることが漢王朝誕生時に認められました。大変な出世です。しかし韓信さんに反乱の企てありとするありもしないことを告げる人がいたそうで、劉邦さんは最終的に功臣であった韓信さんを反逆の容疑でとらえて楚の王様の立場をはく奪しました。韓信さんは王の座を失っただけではなく、固有の軍隊を持つ権限も失いましたし、保有できる領地も大変減らされてしまいました。淮陰侯(わいいんこう)という高い身分にはとどめてはもらったものの、韓信さんにとって待遇は雲泥の差だったようです。その後6年くらいしてから韓信さんは本当に反乱を起こそうとしたそうですが捕らえられて命を落とす結果となります。また項羽さんとの戦で大変貢献した彭越(ほうえつ)さんという武将も、戦功によって劉邦さんから当初は漢の支配下にある梁(りょう)という国の王様にしてもらいました。しかしこの方も部下に「彭越が反乱を企てている。」とありもしないことを告げ口されてしまい捕らえられて梁王の座をはく奪されます。その結果一般人の身分に格下げされてしまいました。こういった調子でいったん功臣に分配されたはずの領地が何かと理由をつけて取り上げられ、代わりに劉邦さんの一族がその領地の王様になるといった事が初代皇帝の劉邦さんの時代でも立て続けに行われていたようですし、六代目の皇帝である景帝(けいてい)さんの時代には劉邦さんの一族の国々も中央政府によって領地を縮小され政治的な権限も奪われてしまいました。その結果秦の時代のような郡県制、地方も中央政府の意向に直接従わなければならない体制に変化していったそうです。

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今回は漢(前漢)の制度、郡国制について取り上げました。劉邦さんが覇権争いに勝利して漢王朝を打ち立てることとなりましたが、当サイトでも劉邦さんと項羽さんの話について記事を書いてみたく、劉邦さんと項羽さんの関係をテーマにして先日記事にしてみました。劉邦さんが王朝の皇帝となるわけですが、その王朝の政策がどのようなものかについて今度は記事を書いてみたいと思いました。しかし漢は大変有名な王朝ですし、この王朝の政策について触れているサイトは非常に多かったため、当サイトでは郡国制について焦点を合わせたテーマとしてみた次第です。今回のテーマで記事を作るために自分なりに調べてみましたが、やはり秦の時代に郡県制のせいで地方に不満がたまってしまったことを教訓として郡国制を採用した、といった見方が大半でした。ただこのような仕組みにして地方反乱がおこらないよう配慮した劉邦さんでしたが、それでも反乱は全くなかったわけではなかったようです。本文で触れた韓信さんや彭越さんといった人たちは濡れ衣で捕らえられてしまった感が強いですけれど、それ以前に燕(えん)の国の王として朝廷から認められていた人物、臧荼(ぞうと)という人は反乱を本当に起こしてしまいました。工夫した制度のもとでもこういった出来事が起きてしまい、皇帝となった劉邦さんも疑い深くなってしまった、そんな見方もあるようです。一時は同じ陣営で戦った同志ともいえる人たちが対立してしまうようなことになるのは見ていて悲しいものです。しかし権力の世界は昨日の友は今日の敵となってしまうこともあるものなのですね。漢王朝は一旦郡国制にしたものの、後に秦の郡県制と同じような仕組みに変化させていったわけですが、この動きは日本の江戸幕府がやったことと似ているような気もしました。順番から言って江戸幕府が漢のやったことを真似たということになるのかもしれませんが。天下分け目の戦い、関ヶ原で家康さん側、東軍についた福島正則さんや加藤清正さんといった豊臣秀吉さんにとって重要な家臣であった人たちは一旦広大な領地の保有を認められはしたものの、その後大幅に領地を減らされてしまいます。福島さんの場合は50万石くらいの領地を4万5000石くらいに減らされましたし、加藤さんは熊本に52万国もの広い領地を持つことを許されはしましたが、後に1万石に減らされてしまいます。地方の有力者というのは、特に体制側に一時的に味方して力を拡大させたような勢力なら、戦が一旦無くなれば、国の中央から反乱を起こすのでは?とどうしても疑いの目で警戒されてしまうものなのかもしれません。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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周王朝の統治について触れている話「周王朝の封建制度とはどのような特徴を持つのでしょう」はこちらです。

古代中国大陸王朝、殷の滅亡について触れている話「殷王朝が滅亡した理由は何だったと言われているのでしょう」はこちらです。

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