戦犯になっていない米内光政の内閣とは?前の内閣についても

米内さんの前の内閣

 

平沼騏一郎内閣が西暦1939年(昭和14年)の8月に総辞職しました。ドイツとソビエト連邦がお互いを侵略しないという条約を締結したことを理由に欧州が複雑怪奇な新しい情勢になったとして、平沼内閣のもとでのドイツなどとの軍事同盟の締結の話はなくなり、別の政策をうち立てる必要が出てきたことに対する責任をとるという理由で首相職を辞するということだったようです。平沼さんが首相を辞めることで次の首相を誰に担当してもらうか元老をはじめとして昭和天皇の重臣らが議論します。次の首相として大蔵大臣を担当した経歴もある三井財閥の中心人物、財界の池田成彬(いけだしげあき)さんの名前も挙がったそうです。しかしこの案は支持が集まらなかったようで、陸軍からの意見で名前の挙がった陸軍大将の阿部信行さんに担当してもらおうという意見が次第に強まりました。元老の西園寺公望さんもその案を支持し、昭和天皇から阿部さんに首相職担当の御命令が出ることとなりました。

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8月30日に阿部内閣が発足します。陸軍も陸軍大臣として畑俊六大将を出し内閣成立に協力しました。陸軍が阿部さんを首相として推薦したので当たり前と言えば当たり前です。時期を同じくして欧州で世界大戦が始まりましたが、阿部さんは賢明なことに支那事変の解決に力を注ぎ欧州での戦争に日本は介入しませんという考えを示しました。しかしこの時期は物資が不足していたことで物価の上昇が目立ち一般国民の不満が強まっていたようです。物価上昇を抑えようと9月に入り価格等統制令(かかくとうとうせいれい)を出したのですが、実体経済に対応しきれず2か月後にはお米の値段を上げざるを得なくなり、国民の負担が増しました。衆議院では政府の政策が悪いということで内閣不信任案が出されたそうです。陸軍が次の首相として阿部さんの名前を出しておきながら、阿部内閣に対する反発が強まったことで陸軍も内閣を支持しなくなり、状況を判断して阿部さんは総辞職することにしました。1940年の1月です。

 

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米内光政内閣

 

阿部さんが首相を辞職することになって次の政権を誰に担当してもらうか昭和天皇の重臣たちは相談することになります。陸軍の軍人さんの名前も取りざたされたようですが、過去に総理大臣を経験した人たちの意見を確認したところ米内光政さんを推薦する意見に支持が集まったそうで結局海軍軍人の米内さんに対し昭和天皇から首相職を担当するよう御命令が出ることとなりました。米内さんは斎藤実さん、岡田啓介さんといった過去首相を担当した海軍軍人同様、英国や米国との関係を良好な状態にすることが望ましいと考える人物だったそうです。そうした考え方と立場が異なる陸軍の主流派はこの米内内閣成立に好印象を持たなかったという指摘がありますが、陸軍の現役の将軍を陸軍大臣として内閣に推薦しないという抵抗は米内さんに昭和天皇から御命令が出た時おこなわれなかったようです。陸軍大臣は畑俊六さんが引き受けることになりました。内閣が成立します。1940年1月16日でした。物価の上昇については阿部さんの政権と同様物価の上昇を抑えるため統制を強めたようです。また軍事費を増やす予算を組むため増税をおこないました。米内さんはドイツが欧州で勢力範囲を広げている中でも陸軍が推進したがっているドイツなどとの同盟を支持しませんでした。このことで陸軍との関係が悪化していきます。陸軍大臣を務めていた畑さんは陸軍の意向に沿う形で辞任してしまい、後継の陸軍大臣を陸軍側が用意しないという内閣を倒す行動に出てしまいます。結果内閣を成立させることが出来なくなり米内さんを始め残された大臣の方々は総辞職することとなりました。1940年7月のことです。その後米内さんは日本がアメリカと戦争をしている時期に海軍大臣を務めることにもなりますが、敗戦後戦勝国側から戦犯に指定されることはありませんでした。ただ公職追放の対象とはなっています。

 

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今回は阿部内閣と米内内閣について一部取りあげてみました。歴史の教科書を見ても数行ですまされてしまう所のようですが、これらの内閣はドイツとの同盟を回避していたわけですし、短期間ではあるものの新たに米国を刺激する行動にも出ていないようです。対米戦争回避という点では貴重な政権だったように思いますし、そのような政治姿勢は注目に値するような気がします。そういった理由もあって記事にしてみました。米内さんの内閣が総辞職した理由として新体制運動なるものも関わってくるようですが、それは別の機会に調べてみたいと考えています。米内政権を調べている過程で昭和天皇が米内さんを次の首相にという考えを述べられていたという話を知り、岡田啓介さんの内閣が退陣した後しばらく無かった海軍穏健派とされる人物による政権が唐突に誕生することとなった理由はそのあたりにあるような気もしました。普通であれば陸軍がそんな人物が首相になったら陸軍からは大臣を出さんぞと言いそうなものです。さすがの陸軍も昭和天皇の強い御意向には逆らえず内閣成立を認めざるを得なかったということなのかもしれません。しかしその後米内さんが陸軍の方針と対立してしまうことで畑さんが陸軍大臣を辞めて陸軍から大臣を出さないというお決まりの抵抗が起きてしまうのです。昭和天皇も米内内閣が続いていれば対米戦争は無かったであろうとの見通しを述べられていたそうですが、この内閣の継続を阻んだのは軍部大臣現役武官制です。この制度が無ければ当時の陸軍は米内内閣を倒すことは出来なかったと思われます(どうしても倒すというのならクーデター事件を起こすくらいしかないのでは)。制度によって対米戦争へと傾いていくのは残念でなりません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

広田内閣の外務大臣人事に陸軍が介入した話「1936年、広田内閣発足。吉田さんが関わる組閣問題も」はこちらです。

米内さんの内閣のその後について触れている話「近衛文麿も入る1940年の新体制運動とは?内閣への影響も」はこちらです。

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