室町幕府という政権が京都におかれたのはなぜなのでしょう
なぜ京都に室町幕府があったのでしょう
足利尊氏(あしかがたかうじ)という人物が朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)という役職に任命され、彼を頂点とする政権、幕府が開かれることとなったのは暦応(りゃくおう)元年、延元(えんげん)三年(当時の日本は朝廷が二つある時代で元号も二つ存在していました)、西暦1338年のことでした。それ以前に幕府が開かれていたのは鎌倉時代という名前があるように、東国の鎌倉でした。尊氏さんの場合は幕府を京都で開くことになります。後の世で室町(むろまち)幕府と呼ばれる幕府ですが当時はそのように呼ばれていたわけではありません。その後尊氏さんを初代将軍と見た時、三代目の将軍にあたる人物、足利義満(よしみつ)さんの時代に京都の室町という所に将軍である義満さんの家を構えます。邸宅は「花の御所 はなのごしょ」などと呼ばれましたが、この邸宅のある場所にちなんで後の時代に室町幕府と呼ばれるようになりました。尊氏さんの拠点と義満さん以降の拠点が多少異なりはするものの同じ京都の地です。征夷大将軍という役職はそもそも朝廷から見て東国、北国に存在した、蝦夷(えみし、えぞ)と朝廷が呼んだ敵対勢力を討伐する軍勢の責任者、指揮官という意味の役職でした。幕府というのは天皇から委ねられてこの征夷大将軍が指導する政権です。征夷大将軍が指揮する政権ですからそのような政権が存在する場所というのは東国、北国の敵対勢力を抑える軍勢のトップという意味合いからして前の時代の場合のように、鎌倉のような東国の地にあるのが自然だと言えます。しかし尊氏さんの場合は朝廷が存在する場所と同じ京都の地に幕府を開きました。尊氏さんの家系、足利家の拠点は現在の栃木県足利市にあたる地域だったそうです。この地も東国ですよね。こういった地域で幕府を開かず、なぜ京都で幕府を開いたのでしょう。それは尊氏さんが京都を離れづらい事情を抱えていたからだと言われているようです。
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尊氏さんの事情
足利尊氏さんは朝廷から征夷大将軍に任命されたわけですが、この尊氏さんを将軍に任命したのは光明(こうみょう)天皇というかたでした。ただ、当時の日本は上でも少し触れた通り朝廷が二つ存在する混乱した時代でした。光明天皇というかたは二つあった朝廷のうちのいわゆる北朝(ほくちょう)の天皇でした。もう一つの朝廷、いわゆる南朝にもこの時期別の天皇、後醍醐(ごだいご)天皇というかたがおられました。尊氏さんは光明天皇からは重職を任される立場でしたが、後醍醐天皇から将軍職に任命されたわけではありません。後醍醐天皇と尊氏さんは当時対立する関係にありました。
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後醍醐天皇は現在の奈良県内にあたる吉野という地域に当時南朝の拠点を置いています。京の都は北朝側、そして足利尊氏さんらが京を勢力下においていました。しかし南朝の後醍醐天皇は出来れば自分が京都を支配下に置いて南朝の拠点を吉野から京都に移したいと考えていましたので、隙があれば北朝の勢力を京都から追い出したい立場なのです。尊氏さんとしては後醍醐天皇の意向を憂慮し南朝勢力に京都を乗っ取られることの無いよう京都でしっかりと軍備を整え南朝側の攻勢に警戒していなければいけませんでした。仮に尊氏さんが京都を離れ、尊氏さんが幕府を開くのに都合の良い東国のどこかの場所に大勢の軍勢を引き連れて拠点を移してしまうと南朝側にとっては京都を手中に収める良い機会になってしまいます。それを防ぐために尊氏さんは京都を離れることが出来ませんでした。そのような事情があり尊氏さんは京都に幕府を開くという政策判断をすることとなります。
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今回は足利尊氏さんが京都を拠点に政治をおこなった理由について一部取りあげました。室町時代が始まる時期を扱った記事を作ろうと思ったのですが、幕府を京都に置いた理由について一般的に関心が持たれているようでしたのでこのようなテーマの記事を作ってみました。考えてみれば鎌倉も、江戸も室町を除いた幕府の拠点は東国ですから、室町時代の幕府の位置が京都というのも「どうして?」と感じるのは自然なのかもしれません。敵対勢力がいつ京都を支配下に収めるため攻めてくるかわからないというのでは北朝に大勢の固有の武力があるわけでもないのでしょうから北朝を支える尊氏さんとしては放っておけないですよね。しかし東国の統治についても気になるということで幕府を京都に置いた尊氏さんは東国に鎌倉府(かまくらふ)という組織を設立し尊氏さんの弟さんや尊氏さんのお子さんをその組織の責任者として京都から派遣して関東地域の統治を任せたのだそうです。朝廷の情勢がしばらくすると安定し第三代将軍足利義満さんの頃には朝廷も統一されて幕府を京都に置いておかなければならない事情も解決していたはずですが、長い期間幕府を京に置いていたので、わざわざ東国に移動しようという意欲が義満さんにはあまり無かったのか幕府拠点はそのまま京都ということになったそうです。幕府が京に存在したことで将軍が貴族化し本来の武士の姿からかけ離れてしまったという見方が多く、室町幕府の影響力が弱まったことと関連付ける指摘もあるようです。居る場所によって雰囲気に染まってしまうというのは軽視できない話なのでしょうかね。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
室町幕府末期の出来事について触れている話「織田信長さんと足利義昭さんが対立したのはなぜなのでしょう」はこちらです。
家康さんがが江戸で幕府を開いた理由について触れている話「江戸幕府が江戸という場所で開かれた理由は何なのでしょう」はこちらです。
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