推古天皇が即位したのにはどのような理由があったのでしょう

推古天皇が即位された理由

古代の日本で起きた出来事、日本の皇室に関係した歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では日本皇室の歴史の中でもそれほど例のない女性の天皇、その中のお一人である推古天皇(すいこてんのう)という方がどうして即位することになったのか、理由について私なりに書いてみたいと思います。長い日本の皇室の歴史の中で女性のかたが天皇となられた事例は複数あります。人数で言えば八名おられました。長いもので令和の時代の天皇として新しく即位された天皇で126代となるのだそうですが、そのうち女性のかたが10代担当しました(八名の女性のうち再び即位された方がお二人いたので八名で10代)。この長い歴史の中で圧倒的に少数派である女性天皇という先例を作ることとなったのが今回取り上げる人物、推古天皇です。第三十三代天皇で最初の女性天皇でした。かつての一万円の肖像(福沢諭吉さんの前の一万円の肖像)にもなっていた有名人物、聖徳太子がこの推古天皇の摂政となり天皇の補佐をしていたことは歴史教育の中でも取り上げられています。聡明で指導者としての能力が備わっていたということなのでしょう。30年以上(36年)も皇位についておられました。ということで節目の女性天皇ということもあり、女性天皇の中でも名前は知られているほうだと思うこの推古天皇というお方。それまでは男性の皇族ばかりが即位していた天皇の歴史の中で、どうしてこの推古天皇という方の場合は女性であったにもかかわらず天皇の座につくこととなったのでしょう。当時の日本の政権内で力を持っていた勢力と関係が深かったという事情や推古天皇が特殊な立場にあった人物だったこと、彼女が皇位につくことで政権が安定するという利点があったことなどが理由であろうといった見方があるようです。

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有力者と近い関係

推古天皇が天皇に即位したのは西暦593年でした。ちょうど飛鳥時代(592年~710年)に入った頃です。この推古天皇が即位した頃、朝廷内で強い影響力を持っていた人物として豪族、蘇我氏(そがし)の指導者である蘇我馬子(そがのうまこ)という人が有名です。豪族というのは皇族と異なる立場ですが、多くの土地や財産を所有することで大きな経済力を持ち、私兵を抱える固有の軍事力も持った力のある勢力でした。その豪族の中でも当時蘇我氏は特に力を持った存在でした。有力な勢力として有名な別の豪族、物部氏(もののべし)は推古天皇が即位する以前に蘇我氏との争い、丁未の乱(ていびのらん)で敗れており、すでに衰退しています。他の豪族に比べて抜きん出た存在だった蘇我氏。その一族のリーダー、蘇我馬子さんは対立関係にあった天皇の命すら奪ったと言われています。推古天皇の前の代の天皇は崇峻天皇という方ですが、この方は蘇我馬子さんに警戒され馬子さんの放った刺客によって殺害されたと言われています。関係が悪ければ天皇ですら命を奪うというのですからその影響力の大きさがうかがえます。この蘇我馬子さんと推古天皇は血縁的に近い間柄でした。推古天皇の母親にあたる方は蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)というお名前のかたです。第29代天皇である欽明(きんめい)天皇の皇后となられました。この女性の姓を見ればわかる通り蘇我氏の一族のかたです。蘇我氏は有力豪族ということもあって皇族の方と姻戚関係となることがあったわけです。推古天皇の母親、蘇我堅塩媛さんは蘇我馬子さんのお姉さんにあたる方でした。推古天皇から見ると蘇我馬子さんは叔父(おじ)にあたる方だったのです。蘇我馬子さんとしては自分の一族と関係の近い人物が天皇に即位することは損になりません。即位した天皇が姻戚関係にある自分たちの一族を優遇してくれるだろう(ないがしろにはしないだろう)と期待できるからです。そのような事情で蘇我馬子さんは推古天皇が新たな天皇となることを支持したと見られており、即位にあたって強力な後押しとなったと考えられます。

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特殊な立場、政権の安定

推古天皇は前の項目でも触れましたが欽明天皇の娘にあたる方、皇女です。天皇のご家庭に娘さんが誕生するのは当然ある話でしょうが、そういった女性皇族がこの時代までに天皇に即位するような事例は存在していませんでした。ですから、女性皇族だったというだけでは推古天皇の即位の理由としては不十分でしょう。ただ推古天皇は女性皇族という立場の他に、かつての天皇の奥さん、元皇后であったという経歴も持っていました。推古天皇は欽明天皇の次の代の天皇、敏達(びだつ)天皇の皇后となっています。この時の推古天皇のお名前は豊御食炊屋姫 (とよみけかしぎやひめ)でした。敏達天皇は10年以上皇位についていたのですが、疫病にかかってしまい病死されてしまったそうです。その皇位にあった期間のうち九年間、推古天皇は皇后として敏達天皇を支えました。こういった皇后としての経験は政治をおこなう上で貴重でもあり、かつての皇后という立場は単なる天皇の配偶者というだけにとどまらない大変権威の高いものだったようです。崇峻天皇というお方が亡くなった後、推古天皇が即位するわけですが、この際に男性皇族として天皇候補が一人もいなかったわけではありませんでした。押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)というかたや厩戸皇子(うまやどのおうじ その後の聖徳太子のこと)といったかたも天皇候補だったという指摘があるようです。押坂彦人大兄皇子さんは敏達天皇の息子にあたる方ですが母親は推古天皇とは異なる皇族の女性です。この押坂彦人大兄皇子さんが天皇になることについては蘇我氏との関係が薄いということで支持が得られなかったという見方もあるようです。それとは別に厩戸皇子は蘇我氏との姻戚関係もあって蘇我馬子さんとしてもその点は利点として映ったでしょうが、反蘇我氏勢力の手前、厩戸皇子を即位させると政権内で蘇我氏と反蘇我氏勢力との間の対立が深まってしまう恐れがあり、厩戸皇子擁立もなかなかやりづらいと。それに比べ次の天皇が女性天皇となった場合は暫定的な、一時的なつなぎの天皇という印象も強まり、豪族間の対立を緩和させることができただろうと見られているようです。

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今回は最初の女性の天皇である推古天皇がどうして即位したのかについて取り上げました。先日女性天皇に反対する意見がなぜ出るのかについて記事にしたことがありましたが、その際に皇室の歴史で女性が天皇になった事例が複数あったことを改めて確認することとなりました。なぜ即位することになったのか、わかる範囲で理由を知りたくなり今回は推古天皇について調べてみた次第です。大変古い時代の出来事ですのでこういう理由だったのだろうという多くの人々の推測を知るということでとどまってしまうわけですが、蘇我氏と深い関係だったことが理由と見られていることについては当時の蘇我氏の力を考えるとつじつまが合うような気もします。過去の女性天皇の方々はつなぎ、暫定的な意味合いの強い天皇だったといったことを聞いたような記憶がありますが、推古天皇は三十年以上天皇の地位にあったわけですので即位したときはそういった意味合いもあったかもしれませんが、結果的に見ると暫定的な存在とは全く異なる天皇となりました。これだけ長く皇位にあったということは相当有能な方、蘇我氏にとってありがたい方、他の豪族からもそれほど不満が出るようなことのない方だったということなのでしょうか。それから女性天皇は独身でいなければならないとか妊娠してはいけないという条件が課せられていたようですが推古天皇の場合は即位される前に敏達天皇という皇族のかたと結婚されていました。皇族のかたと御結婚されていた推古天皇のようなかたの場合は先ほどのような独身等の条件は考えなくていいということなのでしょう。皇族の方々が大変多い場合は皇族間での結婚ということも考えられるのでしょうが現在のような時代は難しいのでしょうかね。法律で皇族とされてはいないものの父方をさかのぼれば歴代の天皇に行き着くという方は結構おられるのでしょうか。主流の言論機関でそのような話を聞くことはまず無いように感じます。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている写真を使用させていただいております。

崇峻天皇の暗殺について触れている話「崇峻天皇が暗殺された理由は何だったのでしょう」はこちらです。

物部氏について触れている話「物部氏はなぜ国内での仏教の普及に反発したのでしょう」はこちらです。

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