古代の中国大陸に隋王朝を建てた初代皇帝について

大昔の中国大陸で隋を建国した初代皇帝

古代の中国大陸で起きた出来事やかつて大陸に存在していた王朝の歴史、隋(ずい)が大陸で勢力を拡大していた時期の話について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では晋(西晋)が滅亡した後、様々な国が大陸に誕生し滅んでいった、五胡十六国時代、南北朝時代を経て久々に大陸の広範囲を統一することに成功した国、隋王朝の初代皇帝について自分なりに書いてみたいと思います。隋の初代皇帝は文帝という呼称が使用されていました。皇帝になる以前は楊堅(ようけん)という名前で呼ばれていた人物です。この楊堅さん。もともとは周(しゅう)という名前の国の人物です。この周という国は過去に存在した王朝と区別するために北周(ほくしゅう)とも呼ばれています。北周は遊牧騎馬民族である鮮卑(せんぴ)という勢力が作った国でどんどん勢力を拡大し紀元後570年代には中国の北側、中国大陸を流れる大河、長江の北側を統一するような強大な国となりました。この周という国で楊堅さんは身分の高い軍人の立場となっていました。この人の父親が周にとって大変功績のある軍人だったそうで、その人の息子さんということで優遇されています。北周が中国の北側を統一した時の皇帝は武帝(ぶてい)という人で、長江の南側に存在していた国、陳(ちん)も倒して中国を統一しようとしましたが病で亡くなり野望は果たせませんでした。武帝さんの次に北周の皇帝となったのは宣帝(せんてい)という人です。この皇帝の正妻、皇后となったのは楊堅さんの娘さんでした。自分の娘さんを皇后にするくらいなのですから楊堅さんの家系が北周で大変重く用いられていたということがわかります。宣帝さんは武帝さんと異なり人望の無い皇帝だったようです。この皇帝は政治に積極的に関与しようとしなかったのでしょうか、実際に政治を動かしたのは外戚の立場であった楊堅さんでした。宣帝さんは即位してから二年という大変短い期間で病死されます。相当若くして宣帝さんが亡くなられたので後を継ぐ息子さんはまだまだ若い年齢でした。新しく皇帝となったのは静帝(せいてい)さんという方。皇位についたとき8歳だったそうです。静帝さんの母方の祖父という立場であった楊堅さんは彼の台頭を警戒する北周の重臣たちと戦い、対立する勢力を倒しました。北周王朝内で楊堅さんに抵抗しようという重臣がいない状況となります。ここで楊堅さんは幼い皇帝に皇位を譲るよう求め、静帝はそれに応じることとなりました。当時の大陸で大変大きな勢力であった北周は内部での権力移動によって滅亡することとなり、それに代わって誕生したのが楊堅さんを初代皇帝として仰ぐ隋王朝でした。紀元後581年のことです。もともと隋というのは北周の支配領域内に存在していた領地の名前(隋州)で、楊堅さんは北周の皇帝からその領地の領主に任じられていました。

スポンサーリンク

南の地域も統一

隋王朝が誕生した時にはまだ文帝さんは中国の北部を支配下におさめているだけで、長江よりも南の地域には別の国が存在していました。南北朝時代と呼ばれる時代が200年ほど続き、長江よりも北の地域と南の地域で別の国が発展する状態となっていました。長江よりも北の地域では先ほどの項目で触れましたが北周や北斉(ほくせい)が紀元後550年代後半から力を持ちましたが、長江よりも南の地域では別の国、陳(ちん)が誕生しています。陳という国が出来る以前は梁(りょう)という王朝が50年ほど続いていましたし、その前には斉(せい)という北斉と名前は似ていますが別の国が存在していました。この国は20年ほど続いた国で、それ以前は宋(そう)という国が50年ほど続いていました。その前に存在したのが晋の末裔が建国した東晋という国です。大陸の南側では晋滅亡後、東晋→宋→斉→梁→陳という具合に国が変わっていきました。隋が建国された頃の南側の国は陳です。隋が誕生する前に存在していた北の国々、北周や北斉は南側の国に攻め込み支配下にしようという野望をいつも持っていたわけではありませんでした。北周の武帝さんの時代には南下せずに武帝さんはこの世を去っています。ただ、北斉が存在していた時期、この国は陳に攻め込もうとしたこともあったようです。しかし長江を渡って進軍することは容易ではなく結果的には北朝の国々が南側に攻め込むことは出来ていませんでした。そういったいきさつもあり陳の王様は長江があるので北の国が我が国に攻め込むことは困難であると見なしてそれほど警戒もしていなかったそうです。しかし隋の文帝さんはそういったこれまでのいきさつに臆することも無く長江を渡るための船を大量に生産し大軍を長江の南側に渡河(とか 河を渡ること)させ陳に侵入しました。この隋の攻勢に対し陳側は撃退することが出来ず、紀元後589年に滅亡してしまいます。こうして長江を挟んで南北に別の国が存在する南北朝の時代は終わることとなりました。また隋の北側に接する地域には突厥(とっけつ とっくつ)という国が存在していましたが隋はこの国とも戦います。この国は紀元後583年に東西二つの国に分裂するのですが東突厥は隋に対し従属する関係となりました。隋の文帝さんはこのように周辺の国を倒したり属国とし、勢力を広げ数百年ぶりに中国大陸の広範囲の地域を統一することに成功しました。

スポンサーリンク

建国後の政策

楊堅さんが隋王朝を建国したあと、どのような政治をしたのでしょう。まず都は長安、現在の西安市に定めています。この点は楊堅さんが最初仕えていた国、北周と同じようにしています。隋の建設した都が従来の都であった長安から南東に位置していたので少し位置がずれていることにはなります。そのためか呼び名が異なりました。北周の場合は長安としていたようですけれども、隋の場合は大興城(だいこうじょう)という名前になっています。長安が様々な王朝で都として使用されているのは、もともとの地形が敵にとって攻略しにくいということで軍事上都を守るのに都合が良かったということや西の地域の国々と交易するのに便利な場所であったという指摘があります。楊堅さんは都を定め統治の仕方としては多くの領主に領地を分配して統治させるやり方よりも中央政府が地方も統治するという中央集権の治め方をしています。漢王朝以降地域を郡や県だけではなく、さらに複数の郡を管轄する州という行政単位が設置されました。これは漢王朝が滅んだあともその後の王朝が治め方をそのまま採用していたようです。しかし時代を経て州や郡の数がどんどん増えてしまったそうです。地方の行政単位が多いと中央による統治がやりづらいということで楊堅さんの隋は郡という行政単位を取っ払い、郡の代わりに州が複数の県地域を担当するということになりました。一般の人々に対してはそれまでの王朝同様一定の土地を規則に従い等しく与えます。そのかわりに租、庸、調という税負担を定め、兵役を課す仕組みが採用されています。府兵制と呼ばれる仕組みですが、これは過去の王朝でも行われていた制度で、土地を分配されていた農民が農閑期に軍事訓練を受けたり、一定期間都を防衛したり、国境の警備をする義務が課せられていました。こういった地方の行政単位、一般人に対する土地の分配、税負担、徴兵といった内容は開皇律令(かいこうりつれい)という隋王朝となってから作られた律令で定められています。また王朝のお役人を任命する仕組みとして従来とは異なり選抜試験をおこなって、その試験を通過した人物を役人に任命するという制度をおこなったことも有名です。唐の時代からこの仕組みが科挙と呼ばれるようになったそうです。それまでは中央政府が任命する担当官によってしかるべき人物が役人に採用されるよう人材を推薦する仕組みが採用されていましたが、家柄で推薦される傾向があったそうで、有能な人材を採用できないという理由もあり試験を課す仕組みが新たに取り入れられました。

スポンサーリンク

今回は中国を統一した王朝、隋の初代皇帝について取り上げました。これまでの記事で晋王朝が滅んでしまう時期まで触れてきたのですが、その後の時代、五胡十六国時代や南北朝時代の大半についてすっ飛ばして今回のテーマとしています。五胡十六国時代や南北朝時代は記事が作れるだろうかと検討はしたのですが、ちょっと複雑なのでわかりにくいということでこの度は避けてみることとしました。出来れば隋以降は時代順に記事を作っていければな、と思います。今回の記事では初代皇帝文帝、楊堅さんについて書いてみましたが、この方も皇位禅譲という方式で新しい国を作った人だったのですね。今回の記事を作るまで全然知りませんでした。魏といい晋といい、今回の隋もですが、王朝の交代で禅譲というのはよくある話だったとのだなぁと改めて感じております。前漢のあとの「新」もそうでした。中国大陸でこういった出来事が長期的な視点で見れば立て続けに起きているわけなのですが、日本国の場合は圧倒的な軍事的実力を持っている者に対し、時の天皇が皇位を禅譲せざるを得なくなるという話が基本的にはありませんよね。どうして皇位簒奪も無く、千年単位で日本国の皇位は連綿と受け継いでこられたのか、とても不思議な感じがします。日本の場合、その時々の軍事的強者が望んだのは天皇から任命される将軍の座だったり関白太政大臣という役職だったりで、皇位ではありませんでした。中国大陸の人から見てもよくわからないところなのではないだろうかと思いました。楊堅さんは隋建国後に堅実な政治をしたということなのか、国内で農民による大規模な反乱が発生したという話は今回調べていて目にしませんでした。節約を重視したなどということも言われているようなので民衆にそれほど負担はかからなかったということなのかもしれません。他に楊堅さんの特徴として、奥さんに頭が上がらなかったなどという話もあるそうです。奥さんは北周王朝の中で非常に実力のある軍人の家柄出身のかただそうで、その軍人の後押しもあって北周の組織の中で楊堅さんは出世することも出来たのだとか。ただこの奥さんは楊堅さんが側室を迎えることを許さなかったそうで、皇帝にもかかわらず自分の思い通りにいかない状況を楊堅さんが嘆いたなどという逸話もあるのだそうです。奥さんの影響力は大きく、楊堅さんの後継者に長男さんが選ばれるのが普通のところ、異性にだらしがないということで後継ぎの資格をはく奪してしまうという出来事もありました。結局次男が楊堅さんの後継ぎとなる資格を得るのですが、一説ではこの次男が楊堅さんを暗殺したなどという説もあります。権力の頂点に立っても自分の子供に殺害されるのでは幸せな人生とは言えませんよね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

過去の王朝での皇位の移譲について触れている話「大国、前漢が滅亡してしまった理由は何だったのでしょう」はこちらです。

隋と同じように久しぶりに大陸を統一した過去の王朝がとった政策について触れている話「秦の君主である始皇帝はどの様な政策を実行したのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る